京都大学 竹内洋
2000年1月25日
今回、はからずも学会会長を仰せつかりました。とりわけ熱心な学会員だったとも学会に貢献してきたともおもいにくいので、忸怩たるものがありますが、理事、評議員、事務局、委員会、学会員の皆さんの協力を得て粛々とすすめていきたい所存ですので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
おもいだしてみれば、わたしが学会で拙い研究発表をしはじめた二十数年前は学会員もそれほど多くなく、こんなこともありました。わたしの発表部会の司会をされていた当時紀要編集長の山村賢明先生から、発表を論文にして学会紀要に投稿してみないかというお誘いをうけ、まとめたことがありました。紀要編集長が学会発表に目配りをしながら紀要投稿を促すことができる時代でありました。そういう学会の牧歌的時代はおわり、日本教育社会学会員は数年前に千人を突破しました。
いまや日本教育社会学会は大規模学会です。学会事務運営のためのエネルギーを膨大に要するようになりました。さらに、今学会年度からは学会事務機構分散化がおこなわれました。学会事務機構分散化は地方分権と同じで言葉の響きはよいのですが、とくに初年度は、事務担当者の負担が従来以上にまし、相当な混乱も予想されます。事務局・委員会の先生方には相当な時間をさいて学会のための無償の労働をおこなってもらっていますので、学会員の皆様にはそこのところをどうか斟酌していただき、寛容にみつめていただきたきご協力とご支援を切にお願い申し上げます。
学会事務運営は大事で疎かにできませんが、学会の盛衰を決定するのは、なんといっても学会員の研究成果であります。われわれの学会と学問研究が多少とも世間で認知されてきたのは、先輩研究者と現学会員の皆様のすぐれた研究成果によるものであることはいうまでもありません。とくに学会外部へのインパクトをもった研究が数多くなされてきたことによるとおもいます。
学会が大規模化しエスタブリシュされることは、方法や技法が洗練されることでありますが、内部市場の確立ということでもあります。内部市場の成熟とともにもっぱら学会内部消費のための生産という自閉化(自家中毒症と紙一重)の弊害もなしとはいえないようにおもいます。構想力を要する大きな問題は評論家やジャーナリストなどの非専門家に扱われ、データベースのような研究を学者がおこなうという傾向は、現代日本の多くの学問におこっています。かくて学校知どころかいまや学問知や大学知が相当マイナーなところに追いやられています。現代社会の学者の自尊(空威張り)と自卑(ニヒリズム)の振幅の大きさ(不機嫌)はまさにこうした神なきあとの司祭者たちのありうべき運命ともおもわれます。こうした中でもともと認識の明晰化の手段であったはずの方法や技法の洗練への志向が、知的大衆や他の学会からの侵犯を許さないための「自己防衛」や学会内部の「知の支配」(実はあらさがしによるおもしろ退治と構想力殺し)の手段のようになってしまうというデカダンスの危険もないとはいえないでしょう。だとしたら、情けないことですし、あらためてなんのための学問か、なんのための学会かが問われます。方法や技法の洗練もデータベース的研究も大きな問題の明晰な分析のとば口のためのものであるという初心を忘れずに、またいまや研究者の発信と語り受信と理解の流儀の革新もせまられているということを念頭において、侵犯する学問であると同時に侵犯されることを厭わず歓迎する学会として、ともに切磋琢磨していきたいものであります。